2017年 10月号
この25年
私が障害者支援の仕事についたのは1992年37歳の時からです。和泉市に新しくできる障害者の生活の場のスタッフの声がかかったのは、当時河内長野市の障害者通所施設あかみねに勤めていた連れ合い(妻)です。常夜勤のトレーラー運転手をしていて、転職を考えだした私が「俺いこか!」と言い出したのが最初です。
当時、「障害者は隔離して保護すべき」といった考え方が大勢で、ノーマライゼーションの言葉も新しく、「障害者とともに生きる」という言葉が奇異な事のように思われていました。私がいった所は、障害者の親たちが地域の普通の子供たちと共に生きることを目的に作った「障害者と共に生きる生活の場ここの家」というところです。まだまだ障害者の就労支援と生活支援は制度的に区別されておらず、大阪府からは「簡易作業所」と一括されていました。障害者差別禁止条約の批准や障害者差別解消法、学校でのインクルージョン(統合)教育を行政が言い出す25年以上前の話です。
「共に生きる」という理念が当たり前のように言われる今は、ある意味「私たちの言ってたことが世間で通ってきた」と思う反面、高齢者介護との関連、営業、サービスとしての介護の在り方の問題等、今までにはなかった対立軸を感じています。
今、介護は従来どおりの「公的福祉」や「ボランティア」としての側面と、膨大な要介護者群「高齢者」を抱えて、営業・サービスとしての介護の 側面を持ち合わすこととなっています。私は他人介護がいるという意味で、要介護者=「障害者」であり、介護の問題としては同じ問題と思っています。サービスとして商品化されたものであろうが、ボランティアであろうが、介護という仕事をもっと満たさなければ、「権利もヘチマもないだろう」と思うのです。ところが、障害者介護は障害者の人権保障とセットであり、営業の対象となる介護保険サービスとは一線を引くべきだと考えられているようです。権利保障はいいけれど、それをだれが担うのかを言っているのです。
介護保険と障害者福祉サービスとの問題は、制度的には「社会参加を謳うか否か」つまり、介護保険でガイドヘルパーを制度化するか否かにかかっているように思うのですが、国はどうもその方向ではなく、医療施設との連携や共生型施設の建設に向いているようです。人を活かして今ある建物、施設をどう生かすかではなく、新しく建てることに方向が向いているように思われてなりません。
(「所詮は土建屋政治の焼き直し」と思うのは私だけでしょうか?)
※河内長野市では、障害者を「障がい者」と書き直していますが「障害者本人が害だとは思っておらず、本人が生きていくのに害が多いと理解していた・・・」という障害者本人の意見もあり、従来どおりの表記をしました。