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2017年 5月号

物真似文化は日本に根付く


 もっとも日本的な番組は「物まね」番組だ。と言った学者がいました。(多田道太郎)どうも私たちは「猿真似」「模倣」と物まねを否定していながら、物まねが大好きなようです。

 赤ん坊や子供たちは物まねからいろんなことを学ぶし、「そもそも文化は物まねから始まるのでは?」とも思いますが、西洋では決してそうではないようです。喜ばれるどころか見下されるに違いありません。それを文化の在り方から説明した学者(ロジェ・カイヨワ)もいます。

 

(文化には「計算の社会」と「混沌(こんとん)の社会」がある。「計算の社会」とは個人の顔立ちがはっきり他と異なっており、それらの違った個人の組合せで出来上がった社会。そこでは、競争と賭けの原理が働き、めいめいが違った能力を最大限発揮する。能力の及ばないところは神に運命をゆだねる。そこに最大の効率がある。これに反し、「混沌(こんとん)の社会」では、自分が自分であることが放棄される。自分は、たとえばお人形ごっこやお芝居において「他者」となり、スキー遊びやマリファナにおいて、自分というものの崩壊する感覚を楽しむ。模擬と「めまい」の原理が働くのである。…私たちの社会(世間)では似た者どおし、強靭につながっている或(あ)る一体感が暗黙のうちに前提されている。だから自分が自分でなくなっても、底の方にある一体性によって支えられるだろうという安心感がある。むしろ、自分が自分でなくなり、他者の「ふり」をするとき、この大きな安心感が湧出(ゆうしゅつ)するといえる。)


 とにかく、近代的西洋では人と変わっていることが良いことで、変わっているというだけで評価される時代があったということです。この文明の流れは押し寄せて、近代日本を大きく洗います。しかし、その日本の土壌には物真似、模倣を良しとする哲学が根強く生き延び、今日に至るということです。
 どちらが間違っているではなく、深く根付く日本文化を認めることからより高いものが生まれるよう思います。

(決して「パンより米が良い」という次元の話ではありません。)

 


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