2015年 4月号
私はポジティブがいい
「第二次世界大戦以降の心理学は、人間の疾患とその治療法に注目することに力を傾けすぎてきた。病理学に注目したことによる収穫は相当なもの…。けれども、このように病理面が強調されたことで、今まで代償が伴ってきた。多くの科学的な心理学は、人として、よりよい生き方をするにはどうしたらよいのか、という研究を無視し続けてきた。」
「ポジティブ心理学は、人間の弱さと同じくらい強さに注目し、最悪のものを修復するのと同じくらい最高のものを築き上げることに関心を持ち、苦悩のどん底にある人の心を癒そうとするのと同じくらい健康な人の人生を充実したものにすることに注意を向けようではないか。」と提唱しています。
なるほど!と思いました。それは他のことにも当てはまりそうです。
私の生き方になりますが、小・中学生のころから被差別部落の問題、水俣病の問題などに刺激され、そういったマイノリティな問題の当事者でない自分を責め、逆にその「思い上がり」に気づき、学生、トラックの運転手、障害者作業所の職員である自分を真剣に生きることに活路を見出してきた半生ですが、常に何か心に引っかかるものを感じていました。それは、「必要だけれどもメインではない、ネガティブで従属的、副次的な道ではないか…?」「目の前にあるメインの道、ポジティブで中心的な道を避けてきただけではないのか…?」という葛藤です。葛藤はしながらも明確に意識することを避けてきました。
最近、何故かしら明確に意識することができるようになりました。ポジティブなことに目をそらすのではなく、むしろそれを引き伸ばし、前に進む力をつけようということです。(先日見た映画「悼む人」はそれを語っている気がします。)
自分ではネガティブだなあ、と思いながら続けてきた仕事や活動(40歳近くで障害者作業所を始めたり、震災ボランティアをしたりしていたときは世間の人には変わり者と見られていただろうと思います。)が、何かしら世間から認められつつあるからかも知れません。
産業構造の変化、一次二次産業の低迷、必然的にブルーカラーの減少、労働運動の低迷、失業かフレキシブルな雇用形態…世の中の変化は、何が中心的で何が副次的なのかさえ判らなくなって来ています。必要なのは単に生産力の発展やお金ではなく、自然・環境との調和、グローバルな人類共存…ということになってきているのかな…と思います。
表面的に暗いからといって、ネガティブとは限りません。同じように明るく見えてもポジティブとは限らないのです。私はポジティブなほうがいいなあ…