2014年 12月号
みんな違って 大変だ!
劇作家の平田オリザ氏によると、文化にはヨーロッパやアメリカなど大陸に見られる「説明文化」と、日本などに見られる「察する文化」があると言います。長い間稲作を担う定住民を中心にした文化、小さい村共同体による文化をつくってきた日本では、「阿吽の呼吸」が良しとされ、くどくど説明するのは「野暮」とされてきました。それは「わけ」知りの、仲間内だからこそ可能な文化です。世界に誇る俳句や川柳、落語なども、状況に対する共同認識を前提とした文化です。「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」とかいうのも法隆寺近辺の状況認識が一致して初めて「いいね!」となるわけで、それを知らない人には「なんのこっちゃ?」ということでしかありません。
それに比べて常に移動する大陸系の騎馬民族や、多民族(日本人も実は多民族なのですが)の国や地方では「わかりあえないこと」が前提となります。確かに、海外旅行をしているとそのことはひしひしと解りますね。違うことが前提ですから「話せばわかる」ということではないのです。まず上手くは話せませんから。多少英語ができても細かいところは語彙が違うので伝えることはできません。そういうところでは先ず相手に「敵ではない」ということを伝え、くどくなろうが自分の意図を説明する努力が必要となります。だから「みんな違って みんないい」なんてのんきな事は言ってられない「みんな違って 大変だ」というわけです。これは、どちらの文化が優れているという問題ではないのです。心を察してもらえる関係であれば「察する文化」のほうが無駄が無くてよいに決まっています。女子高生の省略言葉の能力はすばらしいものがあります。「かわいい!」で通じる文化ですから。しかし、関係者以外はチンプンカンプンです。そこで一般人には標準語による通訳が必要となります。
従来の学校教育では欧米の「説明文化」、そのための「標準語」を教えることが使命とされてきました。ヨーロッパに追いつき追い越すことを目標にした教育です。(方言だらけでは経済の発展も見込めないということでしょう。)その結果、学校で教えられる文化と日常生活で使う言葉・文化が大きく隔たり、まったく面白みの無い文化を無理やり「覚える」ことが強要されることになったのです。学校の勉強は面白いものではないのは当然です。面白さは記憶力を中心としたテストで競い合うことということになります。「子供たちに創造力がなくなった」というのは当然の結果です。大きな見直しが必要でしょう。
私たちの仕事に絡んでいうと、慣れるまでは社員同士も、利用者との仲も「わかりあえない」仲であることが前提です。だからこそ解りあえる努力が必要です。よく「福祉の仕事には愛がいる」という人がいますが、職種を選ぶのはそうであっても仕事で必要なのは愛ではありません。全ての利用者を「愛せ」というのは無理です。必要なのは責任です。そして、察することを強要するのではなく、説明するのが仕事です。