2013年 2月号
人は根っこではつながっている・・・はず
年開け早々アルジェリアでの拉致事件。国内では桜ノ宮高校バスケ部の体罰による生徒の自殺。入試や教員の配置など対応策をめぐる橋下市長と教育委員会の対立。『今年の漢字が』「絆」という年から「金」に変わった途端ギスギスした出来事が多いように思います。
そもそも、人はつながりあえるのでしょうか。私は小さい時から顔の一部にコンプレックスを持っています。眉間に皺が寄らないことです。今は少し寄るようになってますが、これは努力の結果なのです。もともと人との付き合いで、極端に嫌いになったり、また好きになったりしないほうでした。(一年生の通信簿が出てきてそう書いてあるので間違いなかったのでしょう。)しかし、少し齢をとってくると「それは褒められることではないのかなあ」と思うようになりました。今はじめて公表しますが、小学何年か忘れましたが、衝撃的な出来事がありました。自分自身何の落ち度もないのに上級生に呼び出されいきなり殴りつけられたのです。その時の私は痛いということより、理不尽なことをされて家に帰ってから一人泣いたことを覚えています。仕返しをするでもなく、忘れようと努めたように思います。しかし、澱のように溜まった私の気持ちは消えず、その相手ではなく、より弱い相手を殴るという行動で解消しようとしました。最低ですね…。当時もそう思いました。その時から上級生に対する怒りはなくなり、「俺だって同じようなもの…」と思うようになったのです。恥や怖さは一時、できるだけ自分の意見は主張しよう、事が終わってから「俺の方が正しいことを考えていたのに…」などと逃げ口上はやめとこう。と、思うようになりました。
何かしら、「その時は意見や気持ちがかみ合わず、対立したりぶつかっても、人は根っこではつながりあえるはずだ。」という気持ちを持つようになったのです。でないと自分がしんど過ぎると思ったように思います。そんなことを子供のころから考えていたのですから、大学生時代・社会人になって反戦平和運動や学生運動にのめりこむのは既定路線といえるでしょう。当時は米ソ冷戦時代ですから、「どちらについて戦うか」ということばかりで、「絆をどう作り上げるのか」という人は余り居ませんでした。
時は過ぎて冷戦も終わり、「何を作り上げるのか」を考えなければならない時代と思います。障がい者介護、高齢者介護と仕事は違うように思いますが、制度は違っても当事者は同じなのです。「どうすればつながり合って生きていけるのか」ということだけだと思います。障がい者、高齢者、病人…、年齢や症状見方が違えば違いますが、ただ「人」であることに違いはないでしょう。